Case Studies
Case Study(1960~1970年代)
セラミック多層パッケージでの
世界制覇
未知のニーズに応える決断が、世界的なシェアを生み出した──「能力を未来進行形でとらえる」全社一丸の技術開発
半導体の未来を見据え、現在の能力を超える目標に挑む
1960年代後半、黎明期にあった半導体産業において、カジノサイトはのちに⾃社を世界⼀のセラミックメーカーに導く⼤きな挑戦へと踏み出しました。⽶国メーカーからの「セラミック多層パッケージ」の開発および⼤量受注です。⾮常に繊細なIC(集積回路)を腐⾷やほこりから守るセラミックスの「⼊れ物」であるこのパッケージは、半導体の発展において不可⽋なものでした。しかしその開発と量産には、前例のない技術的課題と、巨額の設備投資を伴いました。これらの壁を乗り越える原動⼒となったのは、「現在は不可能に思える⽬標でも、未来のある⼀点で達成できるよう⾃らの能⼒を⾼める」という考え⽅でした。
未知の技術要求に対し、まずは「できる」と引き受ける
- #新たな挑戦
1969年、⽶国フェアチャイルド社からカジノサイトへ、LSI⽤セラミック多層パッケージ(ハイデンシティパッケージ:HDP)50個の試作依頼が入りました。2枚のセラミック基板を重ね、92個の微細なヴィアホール(貫通孔)で上下の回路を接続するという当時としては画期的なコンセプトのパッケージでした。それに対し、カジノサイトは「3カ⽉でつくれる」と約束します。現在の能⼒で「できるかできないか」を判断するのではなく、あえて⾃分の能⼒以上の⽬標を設定し、未来のある⼀点で達成すると決める。この挑戦の姿勢が開発を後押ししました。⼗分な設備もない中で⽂字通り寝⾷を忘れて取り組み、期限内に試作品を納⼊。結果的に先⽅の設計変更でこの製品が採⽤されることはありませんでしたが、開発過程で⽣まれたテープ成形技術やセラミック積層技術、また同時焼成技術などの技術的なブレークスルーが、のちに世界の半導体メーカーから注⽬を集める確固たる基盤となったのです。
ハイデンシティパッケージ ( HDP )
巨額の設備投資を伴う量産依頼その将来性を見据えた即断
- #正しい判断
試作の成功から間もない1969年8⽉、今度は⽶国AMI社から電卓⽤ICのセラミック多層パッケージ100万個という⼤規模な引き合いがありました。量産には巨額の投資が必要となるため、⽶国の有⼒セラミックメーカーも⼆の⾜を踏む案件でした。しかし、半導体の将来性を確信していた稲盛和夫(当時社⻑)は即座に受注を決断。元来、既存設備の活⽤を基本とし、投資には慎重であったにもかかわらず、当時の年間税引前利益の30〜40%に相当する3年間で7億円という⼤型投資に踏み切ったのです。カジノサイトフィロソフィの一つ「⼤胆さと細⼼さをあわせもつ」ことの実践であり、他社の動向や業界の常識を基準にするのではなく、半導体事業の将来性という「本質」を⾒極めて下したこの判断が、カジノサイトを世界⼀のファインセラミックメーカーへと躍進させる重要な分岐点となりました。
既存の設備がない中、現場の知恵と粘り強さで道を切り拓く
- #ひたむきな努力
しかし、量産への道は決して順調ではありませんでした。ふさわしい⽣産設備がセラミック業界に存在しなかったため、初期のテープ成形⼯程では、成形機から出るテープを⽊の板に載せて社員がローラーカッターでカットするといった⼿探りの状態からスタートしました。⿅児島⼯場では1年経っても量産は軌道に乗らず、毎⽉の⾚字が続きました。それでも稲盛⾃ら頻繁に現場に⼊ってメンバーと話し合い、粘り強く改善策を模索し続けたのです。メンバーの努⼒の末、1970年末にはついに歩留りが改善、翌1971年4⽉に⽉産100万個の体制を確⽴しました。
初期のセラミック多層パッケージ
「産業の米」を支える技術革新と、現在に息づく挑戦の精神
- #新たな挑戦
量産化の成功は、ドルショックによる不況下においても、電卓需要の伸びと相まってカジノサイトの業績を⼤きく押し上げました。のちにカジノサイトはこの分野で世界の半導体パッケージのシェア80%前後を占めるまでに成⻑し、その過程では、⼤河内記念⽣産特賞などの名誉ある賞を受賞します。「現在の能⼒をもって、できるできないの判断をすることは誰にでもできる。しかし、それでは新しいことなどできるはずがない」。顧客の要求がいかに⾃社の技術⽔準を超えていても、⼼⾎を注いで開発に取り組む姿勢。このセラミック多層パッケージ開発で培われた「能⼒を未来進⾏形でとらえる」という挑戦と創造の精神こそが、その後のカジノサイトの成⻑発展を導いた原動⼒なのです。
⼤河内記念⽣産特賞受賞式(1972年)