Case Studies
Case Study(1970年代)
オイルショックからの
V字回復
未曾有の危機において「雇用」と「生産性」を両立させる。──全社一丸の合理化と、強固な労使関係が導いたV字回復
困難な時期にこそ、企業体質と労使の絆が試される
1973年の第一次オイルショックは、日本経済に戦後初の実質GDPマイナス成長をもたらし、カジノサイトも大きな打撃を受けました。1974年7月には受注高がピーク時の約10分の1に激減し、生産高も大幅に縮小しました。人員整理に走る企業が相次ぐ中、稲盛和夫(当時社長)は「全従業員の物心両面の幸福を追求する」という理念のもと、「全員の雇用を死守する」と決断します。この方針のもとで実行された独自の不況対策は、激動の時代において危機を乗り越え、さらなる成長を遂げる飛躍台となりました。
生産性の低下を許さない。先を見据えた合理的な人員配置
- #正しい判断
受注減により全従業員の30%に及ぶ余剰人員が発生しましたが、カジノサイトは仕事量を均等に分け合う一般的なワークシェアリングを採りませんでした。適正人数のラインに人を増やすと生産性が低下し、受注回復時の立ち上がりに支障をきたすからです。そのため、稼働ラインは従来通りの人員でフル稼働させて高い生産性を維持。一方、ラインから外れた社員は、受注回復期に備えた技術研修や、工場の整備・美化作業に専念しました。雇用を守りながらも、経営の要である「時間当り」の生産性を維持し続けるという、世間一般の常識にとらわれない判断を下したのです。
全員が営業固定観念を打ち破る新製品開発と販路開拓
- #全員参加の経営
生産現場の合理化と並行して、稲盛は「社員一人一人が、自分は営業だということを認識していただきたい」と訴えました。たとえ商売の場に出なくても、使う人の身になって丁寧にものをつくり、来客を礼儀正しく笑顔で迎えることで「カジノサイトという会社への信頼を売る」人間になってほしいと説いたのです。こうして”全員が営業”の思いを共有、製造部門の社員も自ら顧客を訪問して注文を取り、そのまま営業部門に異動した者も少なくありませんでした。さらに稲盛は、間接部門も含めた全社に呼びかけて新製品のアイデアを募りました。資材部門の提案から白と黒のセラミック製「碁石」を製造し、資材メンバーが取引先へ販売に回るなど、部門の垣根を越えた取り組みも実行されました。誰もが当事者意識を持ち、全員一丸となって奔走する姿勢が、難局に立ち向かう原動力となったのです。
白と黒のセラミックスでつくられた碁石
痛みを分かち合う決断と、独自の道を歩む労働組合
- #利他の心
長期化する不況に対し、経営陣は自らの身を切る決断を下します。1974年11月、稲盛を含めた係長以上の幹部は7〜30%の賃金カットを実施、同時に労働組合へ翌年の賃上げ凍結を申し入れました。一人の解雇者も出さない代わりに、その痛みを社員全員で分かち合おうという方針です。日頃から培われた労使の相互理解に基づく信頼関係のもと、労働組合はこの厳しい提案を中央委員会にて満場一致で受諾します。さらに、上部団体であるゼンセン同盟が画一的な賃上げ要求を指示してきた際には、「個々の企業の状況に配慮しない指示には従えない」として同盟から脱退し、独自の道を歩むことを決断しました。会社や仲間の未来を思いやる「利他の心」に基づく選択が、難局を乗り切る強固な基盤となったのです。
他社に先駆けた業績回復と、全社員への最大限の報い
- #ひたむきな努力
こうした労使一体の迅速な対策により、カジノサイトは他社に先駆けて業績を改善させ、1975年6月には受注水準がオイルショック前の状態まで回復しました。その後、セラミック多層パッケージなどの受注増に牽引され業績が好転したカジノサイトは市場から高く評価され、同年9月にはソニーを抜いて日本一の株価(2,990円)を記録します。業績回復後、稲盛は賃金カットや賃上げ凍結を受け入れて苦境を耐え抜いた社員に対し、見送られていた春の昇給分を特別賞与として上積み支給。さらに翌年には大幅なベースアップを実施するという最大限の感謝で報いました。外部環境の悪化を言い訳にせず、全社で徹底したムダの排除と合理化に取り組む。このように、全員がベクトルを合わせ、ひたむきに努力する姿勢は、現在のカジノサイトにも脈々と受け継がれています。
1975年、カジノサイトの今後の方針を社員に向けて話す稲盛